2017.02.17作り手の手を見て
ある作家さんの工房にお邪魔する機会があった。一枚の銅板を焼きなまし、たたき。その工程を繰り返すことで平たい銅板から側面が立ち上がり、器や、フライパンやティーポットなどの調理器具になる。一枚の銅の板から、どうやってあのように角度のついた側面ができるのか、見る前はなかなかイメージができなかったが、底面になる円の形を決めた後、底に近い部分から円を描くように、左手で銅の板を持ちながら、まわしながら、槌で打ちおろし、すこしずつ立ち上げていく。その過程でひとつひとつ刻まれる槌目こそが、作品づくりへの確かな一歩一歩なのだった。毎日のスケジュールは規則正しく、展覧会が近くて忙しいからといって、食事をおろそかにすることはないという。お昼になると、それほど遠くない自宅に帰り、自ら作ったフライパンをふるい、料理を作る。自分の作品を日常使いの道具として使うことで、様々な気づきが得られるし、使い込むことで道具に生まれる味わいが、また良いのだと。その日は、私たちにタイカレーをご馳走してくださった。日本の職人を訪ねて取材の旅を続けているドイツ人カップルと一緒だったが、ここ数か月キャンプカーで寝泊まりし日本全国を旅している彼らの食事事情を慮って、野菜たっぷりの、優しいカレー。それを、毎日使っているという銅と真鍮のお皿に盛りつけてくださった。金属のお皿でお食事するのって、初めての経験。奥行きのある美しさを持つお皿とスプーンを使って、贅沢な気持ちでいただいた。
工芸の学校に通ったことも、高名な作家さんに弟子入りしたこともなく、ただひたすら自分の目と手で学びとり、自分の思い描くものづくりを追求してきたという。キャリアもレベルも全く違うけれど、私はひそかに親近感を覚えさせてもらったのだった。私も翻訳の学校でみっちり学んだわけではなく(短期間は通ったけれど)、海外経験も長くはない。翻訳家のもとでものすごい修行をした、ということもない。自分がいいと思う英語の専門家に私淑したり、英語ネイティブの先生に書いた英語を見てもらって英語の考え方や書き方を身につけるということを、ただただしてきた。学びの過程に終わりはないし、日本語で書かれた個性ある文章に向き合うたび、どう英語で表現しようか、いつも頭をひねっている。これでいい、これが正しいと誰かに力強く言ってもらいたいという気持ちになることもある。でもそうではなくて、自分で考えて、自分で決めて、結果も自分で引き受けること。その風通しの良さを、自分は選んだのだった、ということに、その作家さんの静かなエネルギーを感じて、あらためて気づかされたのでした。